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【学級通信】(第078号)教育的正義感に取りつかれていた若かりし頃

教育的正義感に取りつかれていた若かりし頃

先生と生徒


私は十数年前に教員人生をスタートさせました。

何にもわからなかった私…あ~若かったなぁ~(遠い目)。

私の先生スタートはC高です。あの頃のC高と言えば、金髪、茶髪は当たり前でした。ちなみにその頃の本校は、基本的に全員金髪でした(嘘です)。まああくまでもイメージです。金髪でチャラっチャラのくせに、頭は良くて、C高が頑張っても絶対に勝てない学校でした。

教員スタート時は本当に大変でした。授業もどうやってよいかわからないし、初めて受け持った部活の顧問は経験のないスポーツだし…しかも、金髪のお兄さんたちがいて、一緒に部活に混じって頑張ろうとすると、変な顔されましたし…。

「あの部活はだらしないから、ちゃんとさせてね」

とか、ベテランの先生たちがプレッシャーをかけてきましたし…。けど、金髪(マネージャーは白のエクステギャル)の子たちと一緒に、何とか部活のやり方を覚えました。

授業や部活で少し指導ができるようになると自信が出てきます。

2年目になると担任に入りました。初めての担任で、ちゃんとしたクラスにしたいと気合いが入っていました。一年間、部活で、オラオラ、ガンガン指導していましたし、その雰囲気でホームルームを運営しようとしました。廊下ですれ違って挨拶しないやつには、

「おい!挨拶しろよ!」と怒鳴る。遅刻するやつには「おい!だらしねーぞ!」と怒鳴る。ふて腐れようものなら「何キレてんだよ!子供かよ!てめーがだらしねーんだろーが!」と追い討ちをかけにいく。

女子も男子もおかまいなし、完全にチンピラでした。

「ルーキーだから張り切ってんだよ」

と生徒の間では陰口を叩かれていたようです。今の言葉で言えば「あいつ何イキッてんだよ」という感じでしょうか(笑)。

そんな感じの教員でしたから、生徒からは嫌われます。それでも

(俺は正しいことやってるし、私が言うことは彼らにとって良いことだし、他の先生が言わないからやってんだし!)

と思っていました。

これを教育的正義感とでも名付けましょう。

挨拶することは教育的に正義ですから、やらない生徒は悪です。悪は倒さなきゃならないので、ガンガン指導してOKです。遅刻も茶髪も悪です。

私のクラス、私の部活で、私に従わない子は悪でした。

それを教育的正義感で指導していくのが、私の働き方でした。

「そんくらい別にいいじゃん」ということが学校にはたくさんあります。

例えば、遅刻指導。遅刻は悪いことですが、そもそも遅刻の責任取るのは本人だし、いちいち先生が腹を立てなくても良くないですか?それよりも生徒たちの溢れ出す才能や努力を褒めてあげた方が意味があるって思いませんか?(ちなみに遅刻はダメで、遅刻指導は必要だと思っています)。

しかし、教育的正義感で生きていた頃の私はそうは思わないんです。

「俺が彼を助けなければ、彼はまともな人間になれない!今ここで直させなければ!」

ってなるんです。こういう先生に目をつけられるとめんどくさいですよ。めんどくさいことずっと言ってきますし、すぐキレますし、キレたこと指摘しようものなら、さらにキレますし。だから生徒たちは、めんどくさがって従ってくれました(笑)。いや~生徒って大人っすよね~

教育的正義感に取りつかれていた私が、(あれ?これ何かちがくね?)って思えるようになったのは、転勤をしていろんな生徒を見たり、いろんな経験をしたからですが、一番大きいのは、

「同じような正義感に取りつかれている後輩を見た」

ことです。自分が成長する度に捨てていったものを全て持っている後輩を発見したとき…恥ずかしくて発狂します(笑)。

じゃあ、この教育的正義感がダメかって言うとそんなことはないです。

遅刻させないという情熱も、挨拶させるようとする厳しさも大切ですよね?

けど、ちょっとそれがズレてるだけなんです。経験もないし、何もわからなくて不安だし、子供たちになめられたら恥ずかしいし、なめられないためには相手をマウントしなきゃならないんです。

それがオジサンになると、肩の力が抜けて、ズルくなって、うまくなっていきます。若い人から見れば、教育に情熱を失って仕事をサボっているカッコ悪い大人に映るわけです。私もずっと思っていました。

(あいつらみたいになったらおしまいだ…俺は情熱を持って働き続けよう)

…いや~素敵ですね♥

さて、今の私と、昔の私のどっちが良いんですかね?J先生が貸してくれた本にこう書いてあります。

「完璧な教師にはどんなに努力したってなれるわけがないけれど、チームとしてなら可能ではないか?」

そうなんです。年齢には年齢なりの役割があるんです。それをチームで満たしていければ良いのです。教育的正義感を振りかざしてちょっとズレていた私も、オジサンになってズルくなった私も、どっちも大切なんです。けっきょく何が言いたいのかというと、

先生も生徒も多様なことが良いってことです。