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【教育雑感】授業見学すること、授業公開すること

授業見学すること、授業公開すること

校舎

みんと。さんによる写真ACからの写真

 「授業研究ってなにさ?」

というと、教材研究とか、教材開発とか、教科書研究とか、指導技術研究とか、教授法研究とか、評価法研究とか…めんどくさいものというイメージ。

しかし、このめんどくさいことをやるのが授業研究。なので、

「だんだんとやらなくなったり」
「忙しいからできなくなったり」
「夜な夜なやって身体壊したり」

…となる。そこで、めんどくさいのを一気に簡単にしてくれるのが、

「授業公開やります」

と授業を公開すること。ちまちま説明されるより、

「授業見せた方が早いし、わかってもらえるし、ためになる」

授業公開+研究協議には上記であげた「OO研究」という要素がすべて入っている。見せる側にも、見られる側にもメリットがある。それが授業公開(といっても、ほとんどの先生はやっていないが…)。

思い起こせば、昔読んだ、「教師たちの挑戦―授業を創る、学びが変わる(佐藤学|2003|小学館)」に、

教師たちの挑戦―授業を創る、学びが変わる

教師たちの挑戦―授業を創る、学びが変わる

 

私は、どんなに「すばらしい実践」を行っていようとも、1年間に1度も同僚に授業を公開して批判を仰がない教師は、公立学校の教師として認めない。なぜなら、その教師は、たとえどんなに「すばらしい実践」を遂行していたとしても、教室を私物化し、子どもを私物化し、授業を私物化し、教職を私物化しているからである。また、私はどんなに研究熱心であったとしても、どんなに分厚い冊子の研究集録を作成したとしても、1年間に3回程度しか研究授業を行っていない学校を、学校改革の事例として承認することに懐疑的である。すべての教師が教室を開いて授業研究を推進しない限り、どのような学校改革も不可能であり、1年に3回程度の授業研究で学校が変わった例など存在しないからである。しかも、教師の研究成果は「研究集録」によって表されるものではない。教師の研究の成果を示すものはただ一つ、教室の事実である。

という厳しい話が書いてあった。私は、私物化とまでは言わないが、年間最低1回は授業公開する教員でありたいとは思う。しかし、個人で、

「公開しますので来てください!」

というのはなかなか敷居が高い。なので、研究会とか研修センターが個人の授業公開をお手伝いできる仕組みがあると良いと思う。個人に代わって、

「公開しますので来てください!」

と組織が言ってくれると助かる人は多いのではないだろうか。

授業は、

「見ることと、見られることで鍛えられる」

研究会や研修センターは授業研究をしたい人たちのインフラであって欲しい。