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【学級通信】(第143号)めんどくさい儀式性が価値を高める

めんどくさい儀式性が価値を高める

アナログレコード

皆さんとお会いするのもぼちぼち終わりですね。1年間の担任といっても、3学期がないので10ヶ月のお付き合いでしたね。卒アル写真をチェックしたり、卒対委員のお手紙企画とかを聞くと、

(あ~お別れだなぁ~)

と感じます。寂しくないですか?私は寂しいです。三年生の担任になってからずっと感じています。

(あ~終わるんだよな~)

という得も言えぬ寂しさ。10年前に卒業生を出しときにはあまり感じなかったですけどね(笑)。いや、感じていたのかな?覚えてないが正しいですね。そのとき何となく感じていた感情など、過ぎてしまえば忘れてしまうものです。けど、それって悲しくないですか?

だから、卒対のお手紙企画はとてもステキだなと思いました。そのとき想っていた気持ちを綴る。相手にそれを送る。記憶は残らなくても手紙は残ります。残すためにワザワザ書いたという行為そのものにも価値があります。ワザワザ手紙を書く…という労力が私たちの気持ちを高めます。インスタでもTwitterでも気軽に記録ができるようになりました。世界中に発信できるようになりました。しかし、手紙の価値には叶わないと思います。(最近、提出頻度が落ちてきた)個人ノートも同じです。手書きに価値があるのです。アプリを起動して気楽に書くわけではない、ノートを開き、鉛筆を出し、机に向かい、想いを綴る。そこまで準備をしたのに、

「今起きた」

「マジだるい」

なんていうTwitter的記述だけで終わらないですよね。それが、ワザワザ書くために準備するという儀式的行為そのものの力だと思うのです。

先日、アナログレコードが流行っているというニュースを見ました。番組の中で、

「アナログレコードを再生するのは、めんどくさい手順が必要です。だけどその儀式性が音楽の価値を高める」

と言っていました。今の時代であればAmazon Musicか、Spotifyを起動して検索するのが最も効率の良い音楽の聞き方だと思いますが、アナログレコードはその逆を行っていますよね。

卒業を迎えるにあたって、いろいろやりたいことがあります。(担任が久しぶりですし、教科的に担任に入りづらいので、ひょっとしたらもう二度と担任をやらない可能性もあるかと思うと、やりたいことは全部やろうと思って生きています。振り回されている皆さんごめんなさいね。)その一つが卒業文集です。本当はやるつもりも、提案するつもりもなかったのですが、やっぱりやりたいなと最近気持ちが高ぶっています。きっかけは、Mさんの個人ノートに貼ってあった8歳の頃の手紙でした。

18さいになったMは、どんなこうこうにいっているのでしょう。あたまはよくなっているのでしょう。そろばんは、つずけているのでしょう。いまは8きゅうだけど、18さいのときはなんきゅうなのか、たのしみです。アルバイトは、なにをしているのでしょうか。いまのMは、じはふつうですけど18さいのMは、じはきれいになっていますか、それともきたないですか。しゅう学りょこうはたのしいですか。Mは、いま2年生なので、しゅう学りょこうはありません。Mは、とうきょう大学をめざしています。だから、いまママとパパに、じゅくをならわせてとおねがいしています。いまは、そろばんと、ユニホッケと、ピアノをならっています。ひこうきは1人でのれますか?

十年後の自分に当てた手紙。涙しましたね。子どもの成長というのは感動するものなのだと改めて感じました。そのときの自分が何を考えて、何を想像していたのかをきちんと記していることがどんなに素晴らしいことなのか。もしこれを39人の文集にしたらどうなるのか、ワクワクしませんか。

めんどくさいという気持ちはわかります。しかし、どうしてもやりたいなと。めんどくさいことにワザワザ挑戦するという儀式が、10年後の誰かに何かを与えるものになるはずだと思うのです。詳細は、全ては受験の終わったあとに提案します。